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サイアミディン

在宅医療は主体的になりやすい

先日鹿児島市内にある妙行寺という所で開催されていた、

「縁起でもない話をしよう会」という興味深い名前の会に参加して参りました。

参加費無料、事前予約不要という哲学カフェと同じスタイルで開催されていて好感が持てるこの会は、

2時間の開催時間の中で、前半は講師の先生が話題を提供し、後半は参加者全員でグループを作って提供されたテーマについて自由に語り合うという構成で執り行われていました。

「縁起でもない話」、すなわち普段人前で話すことがはばかられるような内容の話、

言い換えればタブー視されるような話題を、先延ばしにせずにむしろ積極的に語り合おうという趣旨の会でした。
ちょうど私も同じようなことを考えていた時期でしたのでタイムリーでした。

死が病院という非日常空間へと隔離されるようになり、死が身近ではなくなったために

死について考える機会が激減したことが、望まぬ延命治療を蔓延させる結果となったことを大きな問題と感じておりましたので、

その死についてじっくりと考えようと試みられたこの会の趣旨に、非常に興味をそそられました。


この日の講師はきいれ浜田クリニックの院長で在宅医療に熱心に取り組んでおられる浜田努先生で、

「死とは何か?」についてご自身の体験を踏まえてそのお考えを披露なさいました。

院長の重職にありながら、ぱっと見すごくお若く見える浜田先生ですが、これまでにたくさん患者さんの死の場面に遭遇されたそうで、

人の役に立ちたいという思いから医師になったはずなのに次々に亡くなっていく患者達を前に、「死=敗北」のイメージがずっとぬぐえなかったそうです。

そしてそのイメージを抱え続けると現実とのギャップに耐えきれなくなるため、死は自分とは関係のない別世界の出来事だと切り離して考えることによって自分の精神を保っておられたとのことでした。

ところがそんな状況が変わったのは、浜田先生が諸事情で実家のクリニックを手伝うために、

それまでにいた都会の病院を辞めて、実家に帰ってきて院長の仕事を行うことになり、

在宅医療に携わるようになってから先生の考え方に転機が訪れました。

往診に出かけてみると、患者さん達に心から感謝される場面に多く遭遇するようになり、

また病院における死の現場とは違う臨終の場面を在宅の現場で多く経験されるにつれて、

浜田先生にとって「死=敗北」というイメージが薄れていき、「死とは誰にでも訪れて、そして多くの人に支えられながらも成し遂げられるべき人生の最期の時間」だという思いへと変わっていったようなのです。

だから浜田先生は今後も地元の地で在宅医療の発展にこれからも貢献していこうという決意を新たにされていました。

非常に考えさせられる内容であり、優れたサポーターがいれば人は最期の最期まで自分の意思を貫くことができると、

まさに主体的医療の概念にも通じる話ではないかと感じた次第です。


会の後半は、「もしもあなたが余命6か月のがんだと宣告されたとしたら、最期の時間をどこで生きたいですか?」というテーマでのグループディスカッションでした。

「最期どこで死にたいですか?」と表現されていない所がミソだと思います。健康な精神であれば死にたい人など決していないであろうと思うからです。

ネガティブな死を感じさせる表現ではなく、「死ぬというその最期の瞬間まで生きる」という風にあくまでもポジティブな生の世界の延長戦上に死をとらえることで、

死についてより考えやすくする工夫がなされていると感じました。

さらに考えを進めやすくするために会場では、「自宅」「家族の家」「病院」「施設」の4つの選択肢が絵入りのカードで準備されていて、

そのカードを使いながら適宜自分の思いを語り合うという流れで語り合いが進められました。

私は病院の医師で、病院で亡くなられる患者さんがろくに意思表示もできずに点滴や尿道バルン、経鼻胃管や胃瘻などにつながれ、

スパゲティ症候群と揶揄される、おそらくは本人の本意ではないであろうその終末期の状態を何度も目の当たりにしているので、

「自分は病院や施設では絶対に死にたくない、自分は自分が一番自分らしくいられる場所で最期の時を迎えたい」と、

「それはこの4つの選択肢の中では『自宅」』である可能性が一番高い」という意見を述べました。

しかし多くの参加者の皆さんの中からは、「自宅で亡くなりたいのはやまやまだけど、やっぱり痛みや苦しさにすぐに対応してもらえる病院でお世話になる方が安心」という意見が多数派を占めました。

在宅医療をはばむ壁として、人々の中に病院での医療の質が最高で在宅になればそこからはどうしても劣ることになるというイメージがあるように感じました。

そして本質的には自ら動こうというのではなく、誰かに委ねようとする意識の強さです。

平たく言えば、主体性よりも受動性が強いが故に在宅医療をあきらめてしまう、とも言えるのかもしれません。

どうすればその受動性を主体性に変換させることができるのでしょうか。

そのためには主体的であってもいいんだと思ってもらえるサポートの存在が不可欠であるように私は思います。

家で最期まで生き抜きたいという患者の強い主体性がまずあれば、

それを応援するために在宅医は訪問看護師や介護スタッフ、ケアマネージャーなどのチームメンバーと協力して

家族とも連携をとってその主体性が貫けるように最大限のサポートをすれば患者の願いを叶えることができます。

現代医療の中でも、在宅医療は主体的医療を実現しやすい現場ということも言えるのかもしれません。

だから在宅医療は私の肌に合うのでしょうか。

願わくはその主体性が死が近づいてきてからようやく発揮されるというのではなく、

いつでも、どんな時にでも、主体性を持って医療に関わることができたなら、

きっと良い医療が展開されていくのではないかと考える次第です。


「縁起でもない話をしよう会」、次回は11月14日(水)19時からだそうです。

興味のある方は是非参加してみられてはいかがでしょうか。


たがしゅう
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No title

芸人の内海桂子さんは田頭先生の目指される主体的とは真逆ですが、現代医療を享受し幸せに過ごしている96歳のようです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180914-00548661-shincho-ent

Re: No title

陸人 さん

情報を頂き有難うございます。

(以下、https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180914-00548661-shincho-entより引用)

>私は芸人だから、芸事以外の心配はしないようにしているんです。病名を聞いてもピンとこないし、飲んでいる薬もどんな効果があるのかさっぱり分からない。そんな状態であれこれ自分の健康を憂えても仕方がないでしょう。だったら、病気のことは信頼するお医者さんに任せておけばいい。そう割り切って毎日を元気に過ごしています。

(引用、ここまで)


 確かに「お医者さんにお任せ」の部分だけ聞くと受動的です。
 しかし「芸人だから芸事以外の心配はしない」という所には、「何があってもくよくよ悩まない」というような主体性の強さがうかがえます。

 つまりは、
 「心配だからお医者さんにお任せ」というのと、
 「心配しても仕方がないからお医者さんにお任せ」というのでは主体性の強さが違うということです。
 わかりにくいかもしれませんが、主体性の有無は表面上の言葉には現れない所もあるので外側から判断するのは難しい側面があります。

 また現代医療で手術を受けたとしても、臓器欠損が小さくて済んでいれば健康長寿を達成する事も不可能ではないと思います。

 2014年5月20日(火)の本ブログ記事
 「肉食で健康寿命を延ばす」
 http://tagashuu.blog.fc2.com/blog-entry-278.html
 も御参照下さい。

No title

たがしゅう先生 こんばんは。

とても興味深い会です。私も参加してみたくなりました。
死=縁起でもない。確かにそうなもかもしれませんが母を見ていると死は新しい生活のスタートでもあるのではとも思います。母は延命治療はしなくてもいいと随分前から口にし、文章にも残しています。その背景には母が若くして夫(私の父)を亡くしたこともあるようで、あの世でも父と結婚すると言いいます。それを楽しみに生きているのではとも思います。そんな環境で育ったためか死=悪、怖いというイメージがありません。特別でもなく自然なこと。いつか母が最期を迎える時は父との再会の時でもあり、喪失感が私にあっても、良かったねと母に言ってあげたいと思っています。縁起でもない話を明るく話す母のお陰で私の死生感があるようです。

最期を過ごしたい場所。
高度な医療がなくても、多少の不便を感じながらでも私も自宅で最期を過ごしたいと思います。必要以上のことは望みません。シンプルに最期を迎えられたらそれが幸せです。

Re: No title

花鳥風月 さん

 コメント頂き有難うございます。
 素晴らしい御両親の関係性ですね。人とつながり合うことで新しい世界を切り拓けるという好例に思えます。

> 必要以上のことは望みません。シンプルに最期を迎えられたらそれが幸せです。

 仏教における「少欲知足」の考えに通じる考えだと思います。
 自分のものの見方を調整して、希望と現実のギャップを少なくする事が穏やかな最期を迎えるためのコツであるように私は思います。

No title

たがしゅう先生

「自宅で亡くなりたいのはやまやま」という意識があるのに、病院を選ぶ方が多数派というのは考えさせられますね。

私はもちろん自宅の方が良いだろうという考えですが、それには在宅医療や訪問看護・介護だけでなく家族の連携の必要性を考えると、自宅で最後を迎えるという選択肢は誰にでもあるわけではないと気づきました。
家族がいなければ自宅というのは極めて難しく、家族がいても時間的体力的に困難も多く十分に介護できるとも限らず、「自宅」という選択肢がある人は実はかなり限定されているのだろうと思うようになりました。

最期は自宅を選びたい私でも、もしもの時に果たしてその選択肢は存在するのか?その主体性を貫くことができる状況にあるだろうか?と何やら考え込んでしまいました。

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Re: No title

mina さん

コメント頂き有難うございます。

確かに家族の協力なくして在宅で最期まで生きることを成し遂げるのが現実的に難しい場面もあると思います。

ただその会で出た話として、もともと独居の方であれば在宅看取りは100%で意外とスムーズにいく、というものがありました。
本質的には希望を叶えられるかどうかは本人次第で、他者の課題と感動せず、家族は本人の主体的判断を少なくとも邪魔しないという姿勢が大事なのかもしれません。

No title

本気で死と向き合ってお話できる、羨ましいです。自分なりの考えは持っていても話しに付き合ってくれる人はいません。(笑)
ピンピンコロリで死にたいので、1日1食・砂糖断ち・グルテンフリー・年一健康診断実践中です。
考えてみました、死ぬまでのタイムリミットが3ヶ月でも3日でも体が動くのであれば、いつも通り洗濯したり掃除したり変わらないと思います。でも時間がもったいないので仕事はやめます。(笑)

Re: No title

tana さん

コメント頂き有難うございます。

ピンピンコロリも良いかもしれませんが、急過ぎて準備もできませんし、残される側にとっては辛いかもしれません。
徐々に衰弱する身体に合わせて環境を整理していって思い残しを無しにして眠るように旅立つ逝き方もよいと私は思っています。

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No title

縁起でもない話、したいです。そういうイベントやりたいですね。
表には出せない話なら山のようにあります。
ここでも書けないようなお話、あります。

理想の在宅医療実現はもう今の日本には手遅れだと思っています。
認知症の高齢者が一人家にいるだけでどれだけ大変なのか。家族はどれだけの肉体的、精神的、金銭的な犠牲を強いられるのか。体験したらわかること。それを支えるだけの体力が多くの家庭にはもう残っていないかもしれません。

ポックリ、がいいですねえ。
PEG&人工透析(もちろん意識ナシ)の患者さんの口を診ながらつくづく思います。

プロフィール

たがしゅう

Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
漢方好きの神経内科医です。
南鹿児島さくら病院にいます。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。

南鹿児島さくら病院では職員を随時募集中です。
詳しくはホームページhttp://www.nissyoukai.or.jp/
を御覧になって下さい。
見学申し込みもお気軽にどうぞ。

※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。

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