わかりやすい異常とわかりにくい異常
西洋医学は科学的という態度に偏り過ぎる余り、「検査重視」の医学です。
血液検査での異常を指摘されたり、高価な画像検査での病変が判明したりすれば、
強力な説得力を持って患者さんへ症状の理由を説明する事ができると思います。
しかし、逆に検査で異常が出ない場合への対応は、西洋医学は余りにも無力です。
ブログ読者の中にも、病院に行って「検査には異常はないから心配要りませんよ」と言われた経験のある方も多いのではないでしょうか。
ところが検査に異常がなくとも、実際に症状がある事はざらにあります。ですが患者さん側もそこまで強い症状ではない場合に医者に「検査異常なし」などと言われると、
「そういうものなのか…」と年のせいとかたいした問題ではないと自己解釈し、我慢してやり過ごしてしまっている状況があると思います。
血液検査での異常を指摘されたり、高価な画像検査での病変が判明したりすれば、
強力な説得力を持って患者さんへ症状の理由を説明する事ができると思います。
しかし、逆に検査で異常が出ない場合への対応は、西洋医学は余りにも無力です。
ブログ読者の中にも、病院に行って「検査には異常はないから心配要りませんよ」と言われた経験のある方も多いのではないでしょうか。
ところが検査に異常がなくとも、実際に症状がある事はざらにあります。ですが患者さん側もそこまで強い症状ではない場合に医者に「検査異常なし」などと言われると、
「そういうものなのか…」と年のせいとかたいした問題ではないと自己解釈し、我慢してやり過ごしてしまっている状況があると思います。
あるいは「それでも症状があるからなんとかしてほしい」と患者さんが訴えたとしても、
痛みには鎮痛薬、めまいには抗めまい薬、しびれにはビタミンB12製剤という形で対症療法を行いますが、
これらは単一成分を抽出し凝縮するという発想で作られた、いわゆる「西洋薬」です。
ビタミン剤はまだしも、基本的に西洋薬の本質は身体のシステムを強制的にブロックしたり、急にシャットダウンしたりさせて身体に無理をかける性質の薬です。
そしてこれらは根本的な問題を解決しません。身体のシステムが元に戻らない限りいつまででも飲み続けなければならず、まさに付け焼刃の治療と言えるでしょう。
それでも対応する薬があればまだいいですが、
「頭が鳴る」とか「背中がほてる」とか「身体のあちこちが痛む」などと患者さんが言おうものなら、「精神的なものですね」と言われて心療内科や精神科への受診を勧められるでしょう。
そして心療内科や精神科で処方される薬がまた、脳に対する付け焼刃的な治療であるわけです。
そう考えると、西洋医学ベースの医療は、
検査で異常があり、かつ介入する手段がある場合には有益となりえますが、
それ以外の場合に対しては無力どころか、有害無益にしかなりえないという構造があるという事を認識しておくべきだと私は思います。
一方で千年も二千年も前の時代には、
検査そのものが存在していなかったわけですから、
必然的に当時の医療は検査なしで今そこにある症状と向き合い続けた事になります。何しろ「検査には異常はありません」という逃げ文句は使えませんからね。
その今そこにある症状と向き合い続けた歴史と、その中で培われたノウハウをまとめ上げたのが東洋医学の理論体系です。
東洋医学の勉強を続けていると、いかなる患者さんの症状に対しても真剣に向き合ってきたという努力の跡が感じられます。
例えば今からおよそ2200年前の前漢時代に編集された「黄帝内経(こうていだいけい)」という現存する中国最古の医学書には、
「聖人は既病ではなく、未病を治す」という記載があります。
未病とは、真の病気に至る前の状態の事で、まさに「検査では異常がないけれど体調は何となく悪い」という概念を含んでいると思います。
実は西洋医学の中には未病という概念はありません。
なぜならば未病の概念はあいまいで、西洋医学は明確に定義できないものを研究対象とする事を嫌うからです。
研究対象とみなしていないものを解明できるわけはありませんから、西洋医学が検査で異常がない体調不良に無力なのも無理もない話です。
言い換えれば西洋医学はわかりやすい異常に対してしかうまく対応する事ができないのです。
ウソだと思う人もいるかもしれませんが、それが私が十数年間西洋医学ベースの医療に携わってきて感じた本質です。
一方東洋医学の方は少なくとも未病という形で軽微な異常も捉えようとしています。
しかも西洋医学では「心の問題」と一括りにされそうな様々な症状に対して、様々な治療の選択肢が準備されています。
この凄さをもっと多くの医療関係者に分かってもらいたいと私は思っています。
そんな中、その未病とは何かを科学的に解明しようとした論説が日本東洋医学会の会誌に載っていました。
興味深いので紹介して私見を述べようかと思ったのですが、
長くなりそうなのでまた次の機会に回したいと思います。
たがしゅう
痛みには鎮痛薬、めまいには抗めまい薬、しびれにはビタミンB12製剤という形で対症療法を行いますが、
これらは単一成分を抽出し凝縮するという発想で作られた、いわゆる「西洋薬」です。
ビタミン剤はまだしも、基本的に西洋薬の本質は身体のシステムを強制的にブロックしたり、急にシャットダウンしたりさせて身体に無理をかける性質の薬です。
そしてこれらは根本的な問題を解決しません。身体のシステムが元に戻らない限りいつまででも飲み続けなければならず、まさに付け焼刃の治療と言えるでしょう。
それでも対応する薬があればまだいいですが、
「頭が鳴る」とか「背中がほてる」とか「身体のあちこちが痛む」などと患者さんが言おうものなら、「精神的なものですね」と言われて心療内科や精神科への受診を勧められるでしょう。
そして心療内科や精神科で処方される薬がまた、脳に対する付け焼刃的な治療であるわけです。
そう考えると、西洋医学ベースの医療は、
検査で異常があり、かつ介入する手段がある場合には有益となりえますが、
それ以外の場合に対しては無力どころか、有害無益にしかなりえないという構造があるという事を認識しておくべきだと私は思います。
一方で千年も二千年も前の時代には、
検査そのものが存在していなかったわけですから、
必然的に当時の医療は検査なしで今そこにある症状と向き合い続けた事になります。何しろ「検査には異常はありません」という逃げ文句は使えませんからね。
その今そこにある症状と向き合い続けた歴史と、その中で培われたノウハウをまとめ上げたのが東洋医学の理論体系です。
東洋医学の勉強を続けていると、いかなる患者さんの症状に対しても真剣に向き合ってきたという努力の跡が感じられます。
例えば今からおよそ2200年前の前漢時代に編集された「黄帝内経(こうていだいけい)」という現存する中国最古の医学書には、
「聖人は既病ではなく、未病を治す」という記載があります。
未病とは、真の病気に至る前の状態の事で、まさに「検査では異常がないけれど体調は何となく悪い」という概念を含んでいると思います。
実は西洋医学の中には未病という概念はありません。
なぜならば未病の概念はあいまいで、西洋医学は明確に定義できないものを研究対象とする事を嫌うからです。
研究対象とみなしていないものを解明できるわけはありませんから、西洋医学が検査で異常がない体調不良に無力なのも無理もない話です。
言い換えれば西洋医学はわかりやすい異常に対してしかうまく対応する事ができないのです。
ウソだと思う人もいるかもしれませんが、それが私が十数年間西洋医学ベースの医療に携わってきて感じた本質です。
一方東洋医学の方は少なくとも未病という形で軽微な異常も捉えようとしています。
しかも西洋医学では「心の問題」と一括りにされそうな様々な症状に対して、様々な治療の選択肢が準備されています。
この凄さをもっと多くの医療関係者に分かってもらいたいと私は思っています。
そんな中、その未病とは何かを科学的に解明しようとした論説が日本東洋医学会の会誌に載っていました。
興味深いので紹介して私見を述べようかと思ったのですが、
長くなりそうなのでまた次の機会に回したいと思います。
たがしゅう