興味を持ってもらえるように
当ブログで時々紹介しているNHKEテレの「100分de名著」という番組、
今月のテーマは鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖、道元が著した「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」です。
この本、多分耳慣れないという人が多いのではないかと思いますが、
実は私はこの番組が取り上げられる少し前に「正法眼蔵」について知る機会がありました。
それは先日相田みつを美術館を訪れた時の事です。
その中で相田先生の座右の書として、この「正法眼蔵」の単行本が展示されていたのです。
今月のテーマは鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の開祖、道元が著した「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」です。
この本、多分耳慣れないという人が多いのではないかと思いますが、
実は私はこの番組が取り上げられる少し前に「正法眼蔵」について知る機会がありました。
それは先日相田みつを美術館を訪れた時の事です。
その中で相田先生の座右の書として、この「正法眼蔵」の単行本が展示されていたのです。
見るとその本にはびっしりと相田先生の文字が書き込まれていて、いかに愛読されていたかという事がひしひしと伝わってきました。
その場はその書き込みをじっくりと読み込む時間もなく、はたしてこの本の何がそんなに相田先生の心を打つのかという疑問だけが残りました。
それでも、あれだけシンプルかつ深いメッセージを込めた作品を創出した相田みつを先生が座右の書とした本なのであれば、相当重要な事が書かれているに違いないと本の名前だけをメモに書き残しておいたのです。
それから程なくして今回の「正法眼蔵」特集ですから、何とも良いタイミングというか、運命的なものすら感じてしまいます。
それで番組を見てみると、冒頭、「正法眼蔵は宗教書でなく哲学書として読むと学びが多い」という導入で始まります。
また解説者のひろさちや先生は日本の仏教者の中で、空海、親鸞、そして道元の3人は哲学者であるという事、
「哲学とは、言語で分かりやすく世界を解説すること」だと述べておられました。
親鸞の歎異抄については以前学びましたので、その感じは大変よくわかりますし、こうなるともう一人の空海にも俄然興味が湧いてきます。
禅問答という言葉にも象徴されるように、一見小難しい宗教書のように受け止められがちな「正法眼蔵」ですが、
実は生きるための道標となる大事で本質的な事が書かれているということなのです。
そして番組ではいつもと同じように正法眼蔵のエッセンスをわかりやすく紹介していくのですが、
今回は流石のこの番組でも1回見ただけでは理解が難しく、何度か観返して反芻して理解していく必要があると感じました。
そんな時、ふと思いました。
正法眼蔵の事を知っていて、宗教に対してフラットに捉えている自分でさえ理解が難しいのだから、
何の予備知識もなくこの番組を見る人にとっては、興味を持つにはなかなかハードルが高いかもしれないということです。
そしてせっかくの良い情報であっても、このギャップを埋め合わせしなければ、その良さを十分に活かすことはできないという事も感じました。
ひいてはその難しいと感じられる印象を、自分が紹介する文章の表現によっていかにほぐすかということは、
挑戦する価値が大変大きいということです。
ある本に対し何の興味も持っていない人が、
自分の文章によって少しでも手に取ってみようかと心が揺さぶられる、
そんな文章を書けるように精進していきたいです。
後日この正法眼蔵の良さについて私なりに取り上げてみようと思います。
たがしゅう
その場はその書き込みをじっくりと読み込む時間もなく、はたしてこの本の何がそんなに相田先生の心を打つのかという疑問だけが残りました。
それでも、あれだけシンプルかつ深いメッセージを込めた作品を創出した相田みつを先生が座右の書とした本なのであれば、相当重要な事が書かれているに違いないと本の名前だけをメモに書き残しておいたのです。
それから程なくして今回の「正法眼蔵」特集ですから、何とも良いタイミングというか、運命的なものすら感じてしまいます。
それで番組を見てみると、冒頭、「正法眼蔵は宗教書でなく哲学書として読むと学びが多い」という導入で始まります。
また解説者のひろさちや先生は日本の仏教者の中で、空海、親鸞、そして道元の3人は哲学者であるという事、
「哲学とは、言語で分かりやすく世界を解説すること」だと述べておられました。
親鸞の歎異抄については以前学びましたので、その感じは大変よくわかりますし、こうなるともう一人の空海にも俄然興味が湧いてきます。
禅問答という言葉にも象徴されるように、一見小難しい宗教書のように受け止められがちな「正法眼蔵」ですが、
実は生きるための道標となる大事で本質的な事が書かれているということなのです。
そして番組ではいつもと同じように正法眼蔵のエッセンスをわかりやすく紹介していくのですが、
今回は流石のこの番組でも1回見ただけでは理解が難しく、何度か観返して反芻して理解していく必要があると感じました。
そんな時、ふと思いました。
正法眼蔵の事を知っていて、宗教に対してフラットに捉えている自分でさえ理解が難しいのだから、
何の予備知識もなくこの番組を見る人にとっては、興味を持つにはなかなかハードルが高いかもしれないということです。
そしてせっかくの良い情報であっても、このギャップを埋め合わせしなければ、その良さを十分に活かすことはできないという事も感じました。
ひいてはその難しいと感じられる印象を、自分が紹介する文章の表現によっていかにほぐすかということは、
挑戦する価値が大変大きいということです。
ある本に対し何の興味も持っていない人が、
自分の文章によって少しでも手に取ってみようかと心が揺さぶられる、
そんな文章を書けるように精進していきたいです。
後日この正法眼蔵の良さについて私なりに取り上げてみようと思います。
たがしゅう