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周りに肥料を撒けるのみ

category - ふと思った事
2018/ 09/ 07
                 
哲学カフェにおける「開かれた対話」のスタンスを私は好んでいます。

一方で人と議論をするのは意味がないという意見を聞くことがあります。

確かに私も実生活の中で、「この人にはこれ以上何を言っても無駄」と感じて、相手に反論するのを止め、意識的に距離をおくことがあります。

思考が成熟していないこどもであればまだしも、二十歳も過ぎた大人が相手であれば基本的に説得の類は困難だとも思っています。

たとえ説得に応じたように見える場面であっても、それは自分の意見が通ったというよりも、たまたま自分の意見に触れた相手がそれをきっかけに思考が進んだというだけの話ではないかと思います。

各人がそれぞれの思考世界の中で考えていることに、他人が入り込むことは本質的に不可能なのです。
            

ではなぜ哲学カフェで意見を交わしあうことがよいかと言いますと、

相手をやり込めるのではなく、様々な意見に触れあうことによって自分の思考の樹を育てることができるからだと私は思います。

だから共同作業のようでいて、本質的には個人作業だという、

哲学カフェにはそのような面白さがあると思っています。

イメージとしては哲学カフェの各参加者達がそれぞれ周りに思考の樹を育てるための肥料を撒いているような感じでしょうか。

肥料が相手の樹に合えば育つし、合わなければ何も起こらない。

合った時というのがまるで自分の意見で相手を説得したように感じられるけど、本質的にはただ相手が樹を一歩先に育てただけの状況だと思います。

そして参加者は必ずしも自分が肥料を撒いていなくとも、周りからもらえる肥料をもとに自分の樹を育てることができます。

それが哲学カフェで発言しようとしまいと、参加者全員が一定の満足感を得ることができる仕組みの骨格部分ではないかと私は思います。


そう考えると、小川仁志先生が掲げる3つのルール、「相手の話を最後まで聞く」「難しい言葉をできる限り使わない」「相手の意見を全否定しない」というのもひときわ意味を帯びてきます。

相手からの肥料をしっかりと受け取らないと樹が育つかどうかわからないから「相手の話を最後まで聞く」ですし、

せっかく肥料を撒いても不純物のせいで肥料の成分が浸透しないのはまずいので、「難しい言葉をできる限り使わない」ですし、

何よりそもそも相手を説得しようとしているのではなく、ただ単になりゆきに任せて周りに肥料を撒いているだけなので、

「相手の意見を全否定しない」というよりも、「する必要がない」ということで非常によくできたルールだと思いました。

このルールを守ることによって、参加者全員が思考の樹を自分なりに育てて帰ることができるというわけです。

逆に言えば、普段から思考の樹を育てる習慣のない人にとっては、哲学カフェの良さが半減してしまう可能性があります。

もしくは思考の樹の育て方を誤り、他人の樹を傷つけたり、引っこ抜いたりしようとする習慣を持っている人にとっては、哲学カフェの良さが裏目に出てしまうおそれもあります。

参加者に必ず3つのルールを守ってもらうようにファシリテートすることが、

「自分だけが自分の思考の樹を育てることができる」という事実を自然と理解することができる教育の場を作るのではないかと思います。

そう考えると、冒頭の「相手と議論するのは無駄」というのもわかりますし、

哲学カフェでの開かれた対話が有意義であるということとも矛盾しません。

実生活の中でも肥料を撒いてみて樹が育ちそうな所であればそのまま撒き続けてみますし、

いくら撒いても何事も変わらないような場所からは早々に立ち去って別の場所で肥料を撒くという行動へとつながるのではないでしょうか。


たがしゅう

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