大型台風の影響で東京への滞在時間が長引いたことを受けて、
生じた空き時間を利用して
前日に引き続き急遽開催した2回目の哲学カフェについて御報告致します。
場所は前日に参加して下さったメンバーの方のおすすめもあって、荒川区の町屋という地域にある「
MOMOの小屋」という所で行いました。
こちらは近所に住むお花屋さんが管理されているレンタルフリースペースで定期的に様々なイベントが開催されているそうです。
例えば、「
語り場 ケアニンplus カフェ」という介護に関わる人、興味のある方が自由に集まってざっくばらんに語り合うというイベントも毎月第4火曜日に開催されているそうです。哲学カフェとスタンスが似ていますね。
参加費は300円で、19時開催、事前予約不要だそうですので、お近くで興味のある方は御参加されてはいかがでしょうか。
さて、そんな「MOMOの小屋」さんを使わせて頂き開催した今回のたがしゅう哲学カフェのテーマは
「幸せ」についてです。
急な思いつきで事前準備もろくにできていない状況だったので、うまく司会進行できるかどうか不安でしたが、
普段からアドラー心理学に傾倒し、これまでにも事あるごとに考え続けてきたテーマであったので思い切ってやってみることにしました。
参加者は前日から引き続き参加して下さった方が2名、
24時間に満たないたがしゅうブログでの短期間の告知で見事に参加して下さったブログ読者の方が3名、
そしてMOMOの小屋の管理人さんがFacebookで情報を流して下さって急遽参加して下さった方が7名と、計12名の参加者と私とで「幸せ」について語り合いました。
まず私から「皆さんはどういう時に幸せを感じますか」という質問を投げかけ、
挙がってきた意見を下に幸せの共通点、幸せの本質について探り出そうとする所から始めました。
すると例えば知らない町をゆったりと歩いている時にいろいろな風景を見ることができて幸せだという意見や、
秋野菜がすくすくと育ってきているのをみた時に幸せと感じるという意見が出ました。
また幸せの定義が難しく、幸せと感じているのと嬉しいと感じているのは似ているけれど、自分の中でそれが区別できていないという率直な御意見もありました。
私はアドラーの「
幸せとは貢献感である」の言葉を出しつつ、
参加者の皆さんから、幸せとは自分が幸せを感じるアンテナを立てていないと感じられないものである、という幸せの本質が見えてきたような気がするという感想を持ちました。
一方で幸せと嬉しさ、幸せと快楽というものの関連についても考えてみました。
おいしい食べ物を食べて嬉しい、愛しい人といられてうれしい、行きたいところに行けてうれしいなど、様々な種類の快楽があると思いますが、
幸せを感じる時というのは高確率で快楽がくっついているように思います。
その一方で快楽であれば常に幸せかと言われると必ずしもそうではなく、例えばアルコールや覚せい剤で身を滅ぼしている人は、
はたから見ればとても幸せそうに見えない状況ということもあると思います。
ただ、それでさえ本人は快楽とともに幸せだと思い込んでいる可能性もあるにはあります。
そういう意味では、どんな状況に追い込まれても、自分の感じ方次第で幸せになれるという原則は崩れませんが、
やはり快楽の先に必ずしも幸せが待ち構えているとは限らないという気持ちが強くなります。
逆に幸せではないと感じるのはどんな時かとう問いかけもしてみましたところ、
自分の想いが相手に伝わらない時に幸せではないと感じるという意見をおっしゃって下さる方がいました。
アドラーも「すべての悩みは対人関係から」という言葉を残しています。
そうすると人間関係というものを産み出してきたヒトという動物の脳の複雑さが、
幸せであるか幸せでないかを決めている源泉であるような可能性が見えてきました。
ここで私はもう一つヒト以外の「動物は幸せを感じているであろうか」という質問も投げかけてみました。
その疑問に対しては「動物は動物なりに幸せを感じているだろう」という意見が出ました。
ただその幸せはヒトで言う幸せよりもっと原始的で、それこそ食べ物がおいしいとか、毛ざわりが心地よいとか、五感をベースにした快楽に近いものではなかっただろうかと、
つまり、私達が幸せと快楽がセットで付きまとっていると感じるのはある意味当然で、
どの動物も感じることができる幸せの土台のようなものが快楽ベースの動物的な幸せで、
そこに人間ならではの複雑な脳機能が上乗せになって、世界を上手に捉えることができた時に感じるものが幸せなのではないかという構造が見えてきたように思います。
そして土台となる動物的な幸せを産み出す基本に「自然」という事が関わっているような感想もありました。
私達が山や海など大きな自然を前にして理由もなく充実感や満足感、居心地の良さを感じるベースには、
それが本来の姿であること、自然であることの安心感が備わっているようにも感じられました。
海外で財布を盗まれて、知らない土地で飲まず食わずの日々が続いたけれども、
現地の人に救われて久しぶりの食事にありつけた時は幸せというよりもむしろ感動であったという壮絶なエピソードも参加者の中から聞かれました。
ここには快楽という動物的な幸せの土台に、人の有難さという人間ならではの感覚が積み重なって、涙を流すほどの大きな感動的幸せにつながったのではないかという風に私には感じられました。
このように一人で考えていては触れることのできなかったであろう様々な幸せについての見解を知り、
それについて思索をめぐらせることによって、ぼんやりとしていた幸せの輪郭が割とはっきりと見えてきたように思いました。
それにしても、急な思い付きで開催した今回の哲学カフェでしたが、
参加者の皆さんのおかげで、あっという間の1時間、随分充実した1時間を過ごすことができたように思います。
司会進行役としてはたいして準備もできていなかったので、うまく進められるかどうか心配でしたが、
どうやら杞憂であったようで、おかげさまで幸せな時間を過ごすことができました。
あまりしっかりとした準備をしないと哲学カフェを拓けないと思い込むのもよくないような気がしました。
そういう意味では気軽に開催できますし、また物事を
主体的に考える練習の機会にもなるかもしれません。
これから発展の可能性を大きく感じる哲学カフェ、
私なりにこの活動を続けていきたいと思います。
たがしゅう
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